2009年2月27日金曜日

I've seen this pavement before!(いつか来た道)

平凡な日常に潜む魔物とでもいいましょうか。

ありきたりの風景の中でその本性を巧みに隠し、肉を切り裂くその獰猛な牙を抜かり無く研ぎすまし、何も知らない哀れな獲物が通りかかるの息を殺して待ち構えている魔性の物がこの世にはいるものです。




母が入院している東京郊外の病院に見舞いに行った帰りのこと。
最寄り駅へと続く、郊外にありがちな判で押したように個性の無い道を歩いていました。

車道に比べて妙に幅が広い、奇麗に舗装された歩道を歩きながら、車道の反対側に妙な店があるのに気がつきました。

こんな各駅停車しか停まらない駅前には不似合いな、エスニック雑貨店

とても繁盛しているようには見えませんが、坪数も多そうだし、店構えも、品揃えも都心の同類の店に遜色無いレベルです。
ろくにマーケティングもせず、店主の思い入れだけで出店してしまってすぐに潰れるパターンでしょうか?

しかし、開店して数年は経っているようですし、入居している立派な5階建てビルの上の方には雑貨店の看板だと思われるインド風の巨大な象の絵が掲げられています。この看板料と家賃を払えるなら、店のオーナーはきっと金銭的に余裕があるのでしょう。

あるいは、ビルの所有者と雑貨店の経営者は同じなのかも知れません。
よく見るとビルと目の前の車道、歩道の新しさは大体同じくらい。
小さな駅前に不釣り合いなこの歩道は、行政の駅前再開発の産物かも。
だとすれば、もともとこの辺りの地主だった人が道路拡張などによって行政から莫大な保障金を貰い、住居を兼ねた立派なビルを建て、その一階で自らの趣味が高じた雑貨店を利益度外視でやっている。ありそうな話です

しかし、いくら余裕があると言っても、津川雅彦氏の例を持ち出すまでもなく、利益を出さずに続く商売などございません。

実際、雑貨店の上の階は空きスペースになっています。
どうやら以前はイタリアン・レストランが入っていたようですが、数年前に閉店した模様です。2階へと続く階段は、レストランの目印であったであろう昔のオシャレな小型車の残骸によって塞がれています。錆びが回って朽ち果てた車体が、開店当時のオーナーの無邪気な夢の残骸のようで哀れを誘います。

人はお金だけでは幸せになれません。
自己の内面世界の充足をも求めずにはいられないのです。
しかし皮肉なことに、それはお金では買えないのです。

はたしてこのビルのオーナーは、破滅するまで自分の夢を追い続けるのでしょうか。それともどこかで折り合いをつけることができるのでしょうか。



などと、偶然通りがかった雑貨店から、勝手な想像&妄想をふくらませていた僕の頭に、突然予想外の衝撃と激痛が走りました。

あまりの痛さに僕はその場でしゃがみ込み、衝撃を受けた左目の上のあたりを手で抑えました。激痛で朦朧とする意識のなかで、僕は妙に懐かしい不思議な既視感を覚えました。幸福がただで手に入った子供の頃、僕の前途に立ち塞がった、あの傲慢で意固地で傍若無人なあいつの顔です。


電柱。

そうです。遥か遠い昔、小学2年生の下校途中。「ドラえもん」を読みながら歩いていた僕は、電柱にしこたま頭をぶつけました。

僕だってバカじゃありません。マンガに夢中になってはいても、自分が道のどこを歩いているかぐらいは分かっていました。歩道の真ん中を歩いていれば、ぶつかったとしてもせいぜい人ぐらいだろうと思っていました。

しかし、その電柱はこともあろうに歩道のど真ん中に、まるで歩道の支配者のようにそびえ立っていたのです。そんな不遜な電柱は他で見たことがありません。電柱というものは大抵、歩道の端っこや植え込みのなかに、慎ましやかにその居場所を見出しているものです。

その電柱が何故、歩道の中央で我が物顔に、いたいけな童子を蹴散らしているのか。高度成長期の歪みの残滓なのか、あるいはこの世の不条理を子供に体で教え込もうとする日本社会の見えざる手なのか。

いずれにせよ、僕は子供心にこう思ったものです。


「自分で気をつけなくちゃな」


さて、僕は遠いあの日の教訓を生かして立派に成長できたのか。
もうお分かりの通り、答えは「否」です。
いや、むしろ救いがたくより愚かになった自分がそこにいました。

今回の電柱は歩道のど真ん中ではありませんでしたが、僕の頭の中で認識されている「通常、電柱が存在する歩道上の領域」からやや中央寄りに外れていました。多分、雑貨店へのしょーもない興味が僕をその電柱に引き寄せたのでしょう。


しかし、笑い事では済まなくなってきました

抑えた掌の間から血が滴り落ち、みるみる歩道のタイルに赤い水溜まりができてきたのです。
「こりゃ、まずい。病院に行かなくちゃ」と思いましたが、血がどんどん出てきて目に入り、目を開くこともままなりません。助けを呼ぼうにも、なにぶん辺鄙な場所なので周りに人もいません。
駅まで行けば交番があるのを思い出し、左目を抑え、右目を薄く開けて、ヨタヨタと歩き出しました。

交番に辿り着き、駐在さんに「怪我をしたみたいなんですが・・・」と言って顔を見せると、二人いたお巡りさんは「うわっ」と露骨に嫌な顔(男はに弱いものです)。どうやら顔中だらけだったようです。左の眉毛のあたりが切れてパックリ開いているそうで、すぐに救急車を呼んでくれました。

救急車を待つ間、お巡りさんが傷口を見てくれたり、目が見えるかチェックしてくれました。
お巡りさんが「ギリギリ目はぶつからなかったみたいだね。よかったね、もし目にいってたら悲惨なことになってたよ」と言うのを聞いてゾっとしました。電柱に自分でぶつかって失明するなんて、恥ずかしくて悲劇の主人公にもなれません。


救急車は僕を山奥の病院に連れて行きました。駅に近い病院は塞がっていたようです。見知らぬ土地の、窓からは山しか見えない、精神病院のような立地の脳神経外科病院で治療を受けることになりました。

幸い、傷口は縫合するかしないか迷う微妙な深さだったようで、お医者様には「目立つ所だし縫うと結構跡が残るから、とりあえずテープで押さえて、明日になっても塞がらないようだったら、地元の病院に行って縫ってもらって」と、まるで破れたサッカーボールを修理するようなカジュアルな調子で言っていただけました。

会計を済ませ、窓口の若い女の子に「ところで、ここは何処ですか?」ピアノ・マンぶって聞いてみました。一番近い駅にも4~5kmあるそうで、バスも1時間に数本だというので、タクシーを呼びました。このプチ悪夢みたいな世界から早く逃げ出したい思いだったのです。

タクシーの運転手は今日僕に起こった災難を、自分が酔っぱらって田んぼに落ち、泥まみれで朝を迎えた経験と同列に論じました。なるほど確かに客観的に見ると同程度の滑稽さかもしれません。しかし何か釈然としないものを感じます。

顔に異様な(傷口丸見えの)透明テープを張って、帰宅する学生、勤め人に混ざって電車に乗りました。周囲の好奇な視線を気にする程、僕はもう若くはありません。


僕が考えていたのはこういうことです。

「果たして今日のこの災難は偶然なんだろうか、それとも小学校2年生の時と共通する必然性があるんだろうか?」

「その原因があるとすれば、それを改善しない限り、僕はまた人生の中であの電柱と再会するんだろうか?」

僕は確信しています。
僕の空想癖、現実からの脱線癖は必ず将来別の電柱を招き寄せ、次はもっと悲惨な結果を招くだろうと。

2009年2月26日木曜日

アンコールの名匠たち

名匠たち(Master Builders)

石は神々だけのもの、神々だけが石の宮殿に住む権利を持っている。
木造の東屋は死すべき人間の仮住まいには良いかも知れないが、神々は石の永遠性をお望みだ。

アンコールの全ての遺跡群は本質的に宗教建築であり、
気候と時間に抵抗できる石は寺院の山に代表される権力の究極的示威にうってつけの素材だ。
このように、石は現実と象徴の両面で文明が依って立つ礎となったのだ。

皮肉なことにアンコールやクメールの偉業を象徴する建築は、元々は石から生み出されたものではなかった。
初期の寺院に見られる屋根の湾曲した輪郭や楣(まぐさ)、切妻壁は、クメールの名工達が木造建築を雛形に彼等独特の様式を発展させたに違いないことの証拠だ。

まず最初に煉瓦が使われた。最も初期のアンコールの寺院はしっかりと接合され、完璧に並べられた層によって建てられている。
ラテライト(赭土)もまた好まれた素材で、耐久性もある。
しかし精緻な彫刻には適しておらず、従って美学的表現には不向きな媒体であった。

やがて砂岩が最高の建築媒体になった。
クーレン山から切り出され、川で街まで運ばれた砂岩はアンコールの最も偉大な記念碑の建設に使われた。
砂岩を使いこなすことによって、建築様式はその規模と複雑さにおいて進歩した。
寺院はより細密になり、神々の住処の象徴である全ての重要な中央塔が、かつてないほど複雑で装飾的な回廊や囲い地によって幾重にも囲まれた。

形態はアンコール・ワットにおいてその究極の、最も完璧な表現に行き着いた。
それは神々の力、そして同様にクメールの天才的名工達に対する記念碑でもある。

2009年2月22日日曜日

アンコール文明の誕生

2005年にアンコール遺跡を訪れた際に購入した写真集に納められていた文章(英文)を和訳してみた。
アンコール文明の本質をとらえた簡潔な文章で、遺跡を見たときに感じた様々な疑問を解消してくれた。



文明の誕生(Birth of a Civilization)

水は、シヴァ神のように、創造の源であると同時に生の大いなる破壊者でもある。
米が芽を出す大地を潤し、湖や川に住む魚を生かす。
目の前のもの全てを薙ぎ倒す容赦ない力にもなり得る。

太古の昔から東南アジアの人々の生活は交互に吹く南西と北東の偏西風~決まった風がそれぞれ半年間優勢になる~、によって規定されてきた。
だから何ヶ月もの乾燥した大地、洪水と乾燥の極みを引き連れて雨がやって来るのだ。

季節の循環~豊穣と荒廃の双方~は決して崩れないが、それを征することがアンコールの卓越したところだった。
扶南の水力土木技術の粋を受け継いで、古代クメールは水を手なずけ、余分を貯め、不足を補う巨大システムの一環として運河、溜池、堀や貯水池を建設した。

本質的にアンコールは水を完全に制御することから誕生し、それは水運の帝国だった。
帆船や豪商の帝国ではなく、灌漑が保証する豊富な収穫、運河がもたらす交通至便の帝国であり、巨大な石造寺院を水平にする帝国でさえあった。

象徴としても、偉大な寺院の山々を取り囲む濠の水は宇宙を表している。
水は娯楽でもあり、アンコールの貴族達はボートレースに歓声を上げ、水遊び場への艶かしい遠出ににやにやしたことだろう。

衰退に伴い、アンコールはその水に対する支配権を失った。
運河や溜池は帝国が弱体化し崩壊するにつれ、朽ちていった。

水は再び抑えが効かなくなり、主導権を握った。
植物よりも、人間よりも、水はアンコールの記念碑的栄光を徐々に貶めた。
しかし、絶妙の調和が失われたにもかかわらず、水はアンコールの生活を~楽しませるのと同様に~潤し続けている。