2008年12月8日月曜日

海外で評価された日本映画

記述日時:2007年12月14日11:46

先日、『無法松の一生』という古い日本映画を観た。

これって『ニュー・シネマ・パラダイス』元ネタなんだろうな〜。全く違うストーリーなんだけど、要所要所がはっきりと似ている。

この映画は1958年にヴェネツィア国際映画祭で話題になった(金獅子賞受賞)から、リアルタイムでないにせよ(当時トルナトーレは2歳くらい)影響を受けたとしても不思議じゃない。

『ニュー・シネ〜』は大好きな映画だけど、この『無法松〜』も大好きになった。


実を言うとついつい最近まで邦画が大の苦手だった。

大好きと言える邦画はちょっと思いつかないし、どんだけ大ヒットしてる作品でもいずれ地上波で見れば充分と思っていた。タダ券をもらって観に行っても、つまらなくて途中で劇場を出たこともあった。

いや、最近の邦画はつまらないけど昔の日本映画はすごかったんだ、と言う人もいる。クロサワ、オヅ etc.

そうかと思い、学生の頃リバイバル上映していた『七人の侍』を観に行った。この映画は「キネ旬」の歴代邦画ベスト作品にも選ばれるくらいだし、誰もが認める邦画の最高傑作。だからもしコレが面白く感じられなかったら、自分には邦画は向いてないと思ってもいいだろう。

果たしてその通りになった。

今思うと音声の劣化が酷くて字幕無しではツラかったのもあると思う。決して悪い映画じゃなかったが、正直「これが最高傑作なら、後は推して知るべし」と結論したわけだ。それ以来、邦画を積極的に観た覚えはない。


あれから約15年、思いがけず邦画をいっぱい観るハメになった。仕事のリサーチで日本の名画を集中的に観る必要ができて、TSUTAYAでDVDを借りまくった。

ざっとタイトルを挙げると

『雨月物語』溝口健二(1953)
『狂った果実』中平康(1956)
『隠し砦の三悪人』黒澤明(1958)
『無法松の一生』稲垣浩(1958)
『豚と軍艦』今村昌平(1961)
『天国と地獄』黒澤明(1963)
『飢餓海峡』内田吐夢(1965)
『サンダカン八番娼館 望郷』熊井啓(1974)
『楢山節考』今村昌平(1983) 
『AKIRA』大友克洋(1988)
『ソナチネ』北野武(1993)
『GHOST IN THE SHELL』押井守(1995)
『バトル・ロワイヤル』深作欣二(2000)
『殺し屋1』三池崇史(2001)


これらの映画に共通するのは“海外で評価された”ということ。

ゴダールは溝口の大ファンで、『狂った果実』はヌーヴェル・ヴァーグに影響を与え、『隠し砦の三悪人』は『STAR WARS』の元ネタとなり、スコセッシは今村の作風を真似、タランティーノは日本のポップ・ヴァイオレンスが大好きで、2本の劇場用アニメは欧米のジャパニメーションに対する見方を変えた etc.

これら巷間でしばしば語られる“邦画が海外に与えた影響”を自分で確認し、その理由を理解するのが今回のリサーチのテーマだった。

で、半ば義務的に観始めた。過去の経験から苦行になりかね無いとも危惧したが、邦画に関して無知だったことが幸いし、まるで外国人のような新鮮な感覚で接することができた。

黒澤作品はやはり自分にはさほど響かなかったが(いまいち向いてないらしい)、『飢餓海峡』には度肝を抜かれた。正直、昔の日本映画がこれほどオリジナルだとは思わなかった。

今まで洋画ばかり観てきた自分には、もしこの映画の制作年を知らなければ、洋画のパクリだと思ってしまいそうな前衛的手法や奔放な性表現。しかし、この日本映画が先だったとは・・

一方、欧米の一部で人気があったとされる近年のヴァイオレンス系の作品は正直もう一つだった。これらに関しては、やはり自分が“日本人”であることが邪魔をしたようだ。もし自分が日本語ができなくて、字幕で観るような立場だったら“幸運な誤解”ができたかも知れない。(相変わらず日本語の科白が聴き取りづらいのはナゼだ?)

ただ、欧米人がこれらの作品を好むのは何となく判るような気がした。

その辺を書き出すと長くなるので簡単にまとめると、19世紀半ば以降に日本文化が欧米でブームを起こしたときと通底する理由がある気がする。道徳的な縛りが曖昧で、何よりも視覚的な美を重視すること。それはとりもなおさず日本文化の特質とも言うべきもので、その異質さゆえに時々西欧文化の自己改革に利用されてきたように思える。つまり近現代の世界における主流文化(メイン・ストリーム)が西欧文化だとすれば、日本文化は最も強力なカウンター・カルチャーだということだろうか。

いずれにしても、仕事的にも個人的にも過去の日本映画に好きな作品を幾つか発見できたのは良かった。

ブランド神話を考える

記述日時:2007年04月20日17:26

僕は結婚指輪以外にいわゆる“ブランド品”を持っていないよーな人なので、正直ブランドにはあんまり興味ないんだけど、仕事の必要からここ一ヶ月くらい「ブランド」について色々と調べていた。

とっかかりにヨメが持っていた電話帳のようなファッション雑誌「Precious」に載っている海外ブランドの広告を調べてみた。数えてみると海外ブランドのカラー広告は全部で28社、56ページあった。ブランド毎のページ数は以下の通り。

9p・・・CHANEL
4p・・・GUERLAIN、DE BEERS
2p・・・DIOR、FENDI、CELINE、VALENTINO、DOLCE & GABANA、DONNA KARAN、TIFFANY & CO.、BURBERRY、BOTTEGA VENETA、HERMES、YVES SAINT LAURENT、BROOKS BROTHERS、ARMANI、ESTEE LAUDER
1p・・・CARTIER、PRADA、SALVATORE FERRAGAMO、LOUIS VUITTON、LORO PIANA、FRED、JIL SANDER、VALEXTRA、BVLGARI、ANTONINI、AKRIS PUNTO


ブランド単体で見るとシャネルの9Pが突出していて、ヴィトンなどは意外と少ないし、何故かグッチは抜け落ちている。しかしこれを国別に分類してみると・・・

イタリアのブランド・・・11
フランスのブランド・・・9
アメリカのブランド・・・4
イギリスのブランド・・・1
ドイツのブランド・・・1
スイスのブランド・・・1
南アフリカ・・・1


ブランドと言って思いつくのはフランスイタリアだけど、やはりこの二ヵ国はこの分野において群を抜いている。

また、違うブランドでも実は親会社が同じというパターンも多い。ここ15年くらいで激しいM&Aが行われ、大きく3つのブランド・グループに収斂されたようだ。各グループの傘下ブランドをリストアップしてみると・・

LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)・・・GUERLAIN、DE BEERS、DIOR、FENDI、CELINE、DONNA KARAN、LOUIS VUITTON、FRED、LOEWE、EMILLIO PUCCI、CHRISTIAN LACROIX、GIVANCHY、MARC JACOBS、KENZO、CHAUMET、OMEGA、TAG HEUER、ZENITH などなど(他にも酒類でモエ・エ・シャンドン、ヘネシー、ヴーヴ・クリコ、シャトーディケムなど。小売業ではDFSやサマリテーヌやボン・マルシェなどパリの高級百貨店も所有)

グッチ・グループ・・・GUCCI、BOTTEGA VENETA、YVES SAINT LAURENT、BOUCHERON、BALENCIAGA、SERGIO ROSSI、STELLA McCARTNEY、ALEXANDER McQUEEN、BEDAT & CO. などなど

リシュモン・グループ・・・CARTIER、CHLOE、MONT BLANC、VAN CLEEF & ARPEL、DUNHILL、SHANG HAI TANG、LANCEL などなど(他に高級時計ブランドも多数所有)

このグループから「Precious」の広告を分類すると、

LVMH・・・18p
グッチ・グループ・・・4p
リシュモン・グループ・・・1p

となってLVMHが全体の32%を占めていることがわかる。こうやって見ると、ブランドと縁遠い僕でも今までの人生で知らず知らずLVMHの売上に貢献したことに思い当たる。モエのシャンパンで悪酔いして道端で吐き、ケンゾーのハンカチ(ライセンス製品)で口を拭いた夜。ワイキキのDFSでしょーもない土産品を買ってしまった新婚旅行、そしてNYひとり旅の際、ヨメの御機嫌取りに五番街でエアーチケットより高いヴイトンの財布を買ったとき・・

一人の職人から細々と始まったブランドも今や国際的コングロマリットの一部なのだから驚きだ。強気の価格設定が可能という意味ではアップル(コンピュータ)と通じるものの、その利益幅は通常の一般製造業とは比較にならない。もはやこれはグローバル経済における究極の「高付加価値産業」といえるかも知れない。





・・しかし、こうしてブランド産業の裏側をいろいろと調べてみると、改めて“ブランド”って何だろう?という疑問が湧く。勿論、クオリティが高いというのはブランド品の必須条件だが、それだけではあの値段は取れない。例えば、ブランド品と全く同じ品質のバッグでもブランドのタグが無いだけで価格は10分の1以下になる。

すると、ブランド品がまとう特別の雰囲気、というか権威のようなプライスレスなものが魅力なのだろうか?しかし、これも調べてみるとその“権威”の出所というのは結局、王室や有名人にかかわるエピソードが時間を経て神話化した場合が多い。王室御用達だったから、貴族社会で人気だったから、ハリウッド女優が映画の中で着用したから・・etc。これらも“名声”というものに懐疑的な僕のような人間にはピンと来ない。それに王族・貴族の権威というのも本来かなり胡散臭いもののはずだ。

“ブランド神話”はその起源から時間的に隔たれば隔たるほど、確固としたオーラを纏うものらしい。全ての老舗ブランドには創業者にまつわる伝説や、過去の有名人顧客たちのエピソードが存在する。伝聞されるにつれて、それらは本質から遊離し、曖昧でミステリアスな霧に包まれるようになる。つまりブランドの価値とは、その伝説をいかに魅力的で価値あるものとして維持できるかにかかっている。そしてそれは当然ながら操作可能なものなのだ。

となると、現在これほどまでに人々の心を捉える“ブランド”とは一体何なのか、という疑問はますます深まる。世の中のブランドを購入者達が皆が皆ブランドの神話に惚れ込んでいるわけでもないだろう。ブランドに関する本を何冊か読み、ネットで検索し、銀座のブランド・ストリートをつぶさに歩いてみて、僕は漠然とそれは「安全圏の中での自己差別化」ではないかと思えてきた。

一定の品質に下支えされてはいるものの、ブランドの権威は本質的に脆弱だ。しかし紙幣といっしょで皆が「これは価値がある」と認めている限り、ブランドは絶対的な効力を発揮する。高度産業社会の中で労働者として没個性化・均質化した大衆は、その中で自己を他者から差別化する一手段として「ブランド」を利用するのかも知れない。特に平均値から逸脱するほどの個性は望まない人ほど、マジョリティから認められた権威である「ブランド」を纏うことによって自己を差別化したがるのではないだろうか。そうすれば、社会にちゃんと参加している気持ちになれると同時に、その社会における自分の独自性、優位性を確認できるからだ。文章にすると身も蓋もないが、シンプル故に強力なモティベーションたり得るとも言える。


最初、仕事でブランドのリサーチを始めたときは「興味ないな〜」と乗り気じゃなかったけど、だんだん自分が理解できなかった“ブランド好きな人”の心理を探れて面白かった。でも“ブランド好きな人”から見たら「そんなの当たり前でしょ!」の一言で済まされそうな気もするけど・・

バーホーベンとカラヴァッジョ


記述日時:2007年04月03日00:36

オランダ映画「ブラックブック」を観た。

第二次大戦中のオランダを舞台にナチスとレジスタンス、ドイツ人、オランダ人、ユダヤ人、そして男と女が織りなすスピーディーなサスペンス。“映画好き”の人にはかなりオススメできる映画だ。しかし“映画の日”なのに70席の小ホールが埋まらないところを見ると、一般受けする映画ではないのかもしれない。

僕はここ10年くらい、この映画の監督のポール・バーホーベンが気になって仕方がない。この人は一般的には“変態監督”として知られているらしいが、同じ“変態”でもラース・フォン・トリアーみたいに幼稚な感じはしない(「奇跡の海」は大好きだけど・・)。

とは言っても僕自身、彼のアメリカでの出世作である『ロボコップ』を観たときは正直、吐き気に近い嫌悪感を感じた。嗜虐的な暴力とセックスの描写に「この監督はイカレている。こんな奴は逮捕されるべきだ」とまで思ったものだ。

しかし・・1997年の「スターシップ・トゥルーパーズ」を観て、この監督に対する認識は180度転換した。人間と戦争の本質を鋭く批評し、しかも娯楽性に溢れたこの作品は僕の知る限りに於いて「史上最高の戦争映画」だ。

その後改めて『氷の微笑』などの旧作を観てみると、公開当時は単なる“商業的センセーショナリズムに毒された俗悪さ”と感じられたものの陰に、この監督の深謀遠慮が隠されているのに遅ればせながら気付いた。

簡単に言えばバーホーベンは究極の“写実主義者”なんだと思う。人々は彼の映画に繰り返し登場する“俗悪な残虐性”を嫌悪し批判するが、現実の戦争は間違いなくもっと残酷で、人間の俗悪な行為がニュースで流れない日はない。映画という娯楽性と商業性を多分に内包する芸術形式においては、一切の美化を排除した“リアリティ”というものは歓迎されないのかも知れない。しかしバーホーベンが挑戦し続けているのは正に“人間性の掛け値なしの描写”なのだと思う。


この辺は僕の大好きなイタリア人画家カラヴァッジョと通底するものがある。彼はキリスト教絵画の中に赤裸々なリアリズムを導入したが、それらは当時の聖職者達の激しい拒絶反応を引き起こした。

しかし、カラヴァッジョが決してキリスト教を否定していたわけでは無かった様に、バーホーベンも別に人間嫌いなわけではないだろう。むしろ複雑で、簡単に善悪では判別できない“人間という生物”に興味が尽きないんだろう。

彼の映画には一貫した批評精神が常にある。カラヴァッジョ同様に、表面的な残酷さや俗悪さで嫌ってしまうにはあまりにもったいない“現代の巨匠”じゃないだろうか。しかし、カラヴァッジョがごくごく近年になって再評価されるまで“忘れられた画家”だったように、バーホーベンが巨匠として認知されるのも当分先のことなのかも知れない。

また一方で、彼のそういった指向性とハリウッドの商業主義が“センセーショナルな暴力とセックス”という一点のみに於いて“不幸な結婚”をしてしまったことに監督自身も忸怩たる思いだったらしく、今回の『ブラックブック』ではハリウッドを離れ、母国オランダで制作をしている。

ヨーロッパ映画は往々にして哲学的、形而上学的な迷路にはまりやすく、娯楽性を軽んじて映画という大衆芸術をかえって矮小化してしまう傾向があるように思える。だからヨーロッパ人監督がハリウッドで体得した“大衆にアピールするノウハウ”を母国に持ち込めば、世界の映画市場の3分の2をハリウッド映画が独占するいびつな現状を変えるきっかけになるかも知れない。

それはともかく、バーホーベンの様に理屈抜きでも理屈込みでも楽しめる(芸術性と娯楽がイーヴンに結合した)映画を作れる監督はそうそういない気がする。次回作が楽しみだ。

音楽との付き合い方

記述日時:2006年12月26日17:38

昨晩、友達とブルーノート東京に行った。

こういう高級(?)ライブハウスは初めてだったけど、最近こういう形態がウケている様子。丸の内のコットンクラブや今度できる東京ミッドタウンにも同様のクラブが入るみたいだし。

クリスマスということもあるのかも知れないけど、イヴニングドレスを着た女性もチラホラいて華やかな雰囲気。隣のカップルはおもむろにプレゼント交換を始めた。

どうやら今夜の客層はおおまかに二つに分かれそうだ。クリスマスとかは関係なく、出演ミュージシャンがとにかく好きで来たパターン。一方はファンの彼氏がファンではない彼女を誘って、ライブとクリスマス・イベントの一石二鳥を狙ったパターン。

僕はどっちだろう?まだ注文を決めてないのにウェイトレスを呼び止め、何にしようか長考する悪い癖のある目の前の友達を見れば、後者でないことは明らかだ。

ここ数年、僕にとってクリスマスとは“ヨメと実家に帰ってケーキと御馳走を食べて、お酒を多目に飲む日”という位置づけに過ぎないので、クリスマスをイベントとして有効活用しようとする大勢の人を観て何か新鮮な気持ちにさせられる。

しかし、今晩のこのブルーノートに限っては、そういったカップルの思惑は完全に裏切られたに違いない。

“Sweet Christmas Nights”と銘打たれているにもかかわらず、一曲目から客を煽りまくって、一瞬にして総立ち状態。シッポリ聖夜を楽しもうと目論んでいたカップルの目は点。座っていると何も見えないので、仕方なく立って身体を揺らすイブニングドレスの女性。かたくなに“我関せず”を貫きディナーをつづけるカップル。

うーん、どうやら今晩がラスト・ステージだというのに、このミュージシャンは全く主催者側の主旨と一部の客のニーズ、つまり空気を読めてない。てゆーか、そんなイベントのBGMとして消費されるのを拒否してるかのようだ。

そのミュージシャン、ジョニー・ギル(Johnny Gill)は知っている人には説明の必要が無く、知らない人には説明してもしょうがないタイプのシンガーだ。つまりその手の音楽が好きなら知らないわけはないし、知らないと言うことは、その手の音楽がそれ程好きじゃないって事だからだ。

僕がジョニー・ギルを知ったのは20歳くらいの頃。友達の部屋で12インチ・シングルを聞かせて貰ったのがきっかけだった。それほどファンだったわけじゃなかったけど、僕の記憶の中でその友人とジョニー・ギルは強く結びついていた。歳をとってその友人との関係も変化したが、先日偶然にその結びつきが甦った。

ひさしぶりにその友人と電話をしていた。いつものように仕事の話だったが、友人が最近接待でブルーノートに行ったと言う。モニターを見ながら電話をしていた僕は、ふとブルーノートのサイトをチェックしてみた。すると年末にジョニー・ギルがブッキングされてるじゃないか!久しくそんな話題で盛り上がったことが無かった僕らだったが、その一瞬はまるで学生時代に戻ったようだった。

当時、若手実力派スターだったジョニーも今ではすっかりチャートとは無縁になり、レコードも出さなくなった。もうてっきり消えたものと思っていただけに、ステージで暴れまくる姿は往年のファンには嬉しい驚きだったに違いない。彼の代名詞だった歌の巧さと迫力は健在だった。

若い頃は年輩の人が音楽を通して過去を振り返りたがるのを、なんとなく気持ち悪く思っていたが、今では完全に理解できるし、それが“音楽”の一つの基本的機能だとも思う。しかし、ジョニーが1時間きっかりでステージを降り、アンコールもやらないのを見たときは少し考えさせられた。

やはり音楽を人生名場面のBGMだけに留めるのは面白くない。たまにはそれも悪くないが、やはり今現在の生活を彩る“現在進行形”であってこそ音楽は楽しい。

それに・・1時間のステージで一万円(飲食代別)はやっぱり高いんじゃない?クリスマスってやっぱり商業主義的なイベントだと再確認。でも好きなアーティストが来たら、また行ってみたいかも。

2008年12月7日日曜日

パリ往路・復路

記述日時:2006年10月26日13:00

旅の余韻に浸る間もなく繁忙期に突入してたので、PARIS旅行の続き。

アエロフロートの機内食は意外とまともだった。ただし、やはりアルコール類は有料。モスクワのシェレメチボ空港に着陸すると、これはもう恒例行事なのか乗客から拍手があがる。噂に反して全く危なげないフライトだったのだが・・・

シェレメチボは古くさく、いかにも共産国っぽい作り。免税店にはマトリョーシカとウォッカと共産主義時代をネタにしたTシャツ位しか売ってない。全くハレの舞台としての華やかさに欠ける空港だが、ときどきスゴイ美人の空港職員がいて気が抜けない(?)。


機内で隣に座ったチャド人はモスクワから更にアムステルダム、トリポリを経由して自分の国に帰ると言っていた。日本への旅は片道3日かかるらしい。聞くだけで疲れる話だ。しかも彼は走り高跳びの選手のように手足が長いのでエコノミー席は拷問に近いのでは。

ところでチャドのような日本人にとってマイナーな国の人と話すのは結構大変だ。日本の話で盛り上がってる間はいいが、チャドの話となると苦しくなる。だって悪いけどチャドについて知ってることなんてほとんど無いに等しい。唯一知ってた話題はチャド湖消滅のニュース。僕はてっきり灌漑など人為的原因で干上がったのかと思っていたが、彼の話だとそうではなく温暖化など自然の問題らしい。

当然のようにチャドに関する話はそれで終わった。


CDGに着いたのは夜遅く。エール・フランスのバスはもう終わってたし、16時間の移動で疲れたのでタクシーでホテルに向かうことに。機内でフランス語テキストを一読したものの、運転手が何を言ってるのかサッパリわからない。でも機内で丸暗記したフランス語のフレーズ「領収書下さい」は通じた。発音は意外とルーズなのかも。


行きのタクシーは白人運転手だったが、最終日のCDGに向かうタクシーの運転手は広東系カンボジア人のフランス人(ややこしい)だった。パリではやはりアフリカ、アラブ系の移民が目立つけど、ベトナムやカンボジアなど旧植民地のアジア系は結構いるみたいだ。

彼はもう50過ぎでもうパリに来て30年になるらしい。日本企業で働いていたこともあって日本語の挨拶くらいはできるようだ。利用航空会社を聞かれたとき、「なんで日本人なのにANAやエール・フランスじゃないんだ?」と聞かれ「だって安いから」と答えると聞いちゃいけないことを聞いたような顔をしていた(失敬な)。


僕が2年前にシェム・リアップに行った話をすると、

運: 俺もつい最近カンボジアに行ったよ。でもカンボジアは嫌いだ。シエム・リアップはいいけど、プノンペンは汚い、最悪だ。

僕: 何で?帰ってみたいとか思わないの?向こうに親戚とか家族はいるの?

運: いない。全員殺された。両親、兄弟、6人全員な。

僕: ・・・それって・・クメール・ルージュに殺されたってこと?

運: そう。俺の親父はリッチなビジネスマンだったんだ。あいつらは金持ちと知識人をみんな殺したんだ。俺はもう歳で今更カンボジアには帰れない。それにパリに30年も住んで、こっちのほうが好きだし、俺はもうフランス人だよ。

僕: ・・・・

「俺はフランス人でカンボジアは嫌い」という彼だったが、その表情は複雑だった。何故彼だけが生き残ってパリに脱出できたのかは聞かなかったけど、彼の表情から彼の人生が困難の連続で今も決して楽ではないことが察せられた。

ポル・ポトの信じられないくらい残酷で子供っぽい国家計画は悪名高いけど、実際にそれによって人生を狂わされた人にパリで話を聞けるなんて幸運だった。パリとは直接関係ないけど、彼の苦虫を噛みつぶしたような悲しい顔は今回の旅行の印象深い1コマだ。


帰りのアエロフロートも全く危なげなく成田に着陸し拍手を浴びていた。しかし同じ頃ロシアのどっかの地方空港でまた事故があって大勢死んだらしく、実家の両親に「もうエロフロートなんか乗っちゃダメよ」と諭されてしまった。

今回の旅行で結構気に入っちゃったんだけどな〜アエロフロート。

パリの暗黒面

記述日時:2006年10月13日16:42

パリから帰ってまいりました。

初めてのパリの印象は一言で言うと重たい街でした。
といっても悪い意味ではなく、そこかしこに歴史の重みが感じられる“重厚な都市”といった意味です。

パリは美しく華やかな街ですが、決して軽やかではなくヒジョーに重々しい町並です。そして人々の気分や文化など全てが引き継いだ長い歴史の重みに影響されているようでした。これは東京のように何度も焼失を繰り返してきた街との大きな違いかも知れません。

こんな話をすると怖がる人もいるかも知れませんが、僕にとっての初めてのパリ訪問を象徴づける出来事がありました。

僕は霊感は乏しいタイプですが、それでも泊まったホテルでは何か感じるものがありました。不思議な夢を見たのです。

異国の街(多分パリ)で白人の婦人が主人公の夢でした。といってもその婦人は既に死んでいて、同じく死んだ夫の亡骸を石畳の道の下に埋めて、その場所にずっと(100〜200年間くらい?)霊として留まっているのです。よく考えてみるとその夫もそれほど良い夫ではなかったのですが、今となってはそれがすがることの出来る唯一の思い出というわけです。しかし、あるときやはりもう死んでいる男が通りがかりました。その男は病気持ちなのか顔をいつも痙攣させています。男は婦人を見て、全てを察し、婦人を怒鳴りつけます。こんな所に留まっていてはダメだ、すぐに出発しろと急き立てるのです。婦人はとまどいつつも、男の言うことが正しいと感じます。

と、ここで目が覚めてしまいました。

この夢がパリの亡霊が僕に見させたものなのか、自分の全くの想像の産物のなかは定かではありませんが、それほどにパリには死者の記録が溢れているのです。

教会や街角のあちこちで「MORT POUR LA FRANCE」と刻まれた碑文を見かけました。「フランスのために死んだ」人々のための碑ですが、国家に殺された人々の霊を鎮めるためのものも多そうです。パリ・コミューンで虐殺された人々を鎮魂する目的で建てられたサクレ・クール寺院がその象徴的なものですし、戦争や革命で人々の血を吸った場所も市内の至る所にあります。

僕はフランスの歴史には疎かったのですが、今回の訪問をきっかけに少し勉強してみたいと思いました。

2008年12月5日金曜日

失われた空気 〜『傍観者の時代』を読んで

記述日時:2006年05月12日13:12


「傍観者の時代」という本を読んでいる。
この本が異様に面白い

著者はオーストリア生まれの米国人、ピーター・F・ドラッカー。「経営学」をかじったことのある人なら絶対に知っている人。「経営学」の創始者で、彼を崇拝するビジネスマンは日本にも非常に多い。といってもビジネス・スキルというよりは社会学としての企業研究、組織研究みたいな感じで、ドラッカー氏自身はエコノミストではなく社会学者、文筆家を自称している。

この「傍観者の時代」は経営とは全く関係無い他人伝ともいえる内容。彼が親交を結んだ人物を語ることで、間接的に氏の生きた20世紀を叙述している。登場人物は概して、当時は才気煥発だったが今では誰も思い出さない、まるで「アマデウス」のサリエリのようなタイプが多い。誤解を恐れずに言えばホリエモンのような感じかも。歴史には残らないが、同時代人に大きな影響を与えた人物だ。登場人物の人生だけでも十分面白いのだけど、それ以上に僕が面白いと思ったのは、この本に記録された失われた空気とでも言うものだ。

たとえば去年の9月11日の選挙で小泉自民党が驚異的な圧勝をしたことは、必ず歴史に残るトピックだろう。後世の学生が歴史教科書を読むとき、そこには年号と事実の簡潔な記述、あるいは郵政改革をめぐる対立の解説が載っているかも知れない。しかし果たしてそれは“生きた”歴史の記録だろうか?去年の秋のあの異様な興奮を、はたしてその学生は理解できるだろうか?小泉を圧勝させた時代の空気を実感できるか甚だ疑問だ。

江戸時代の“ええじゃないか”の発生原因を現代の歴史家が説明できないのもここに問題がある。彼等はいつ、どれほどの規模で、何が起こったのかは知り得ても、一体どんな社会的な空気があれほどの人々を、異常な集団行動に駆り立てたのかは全く説明できない。これは歴史を学ぶ者にとっての最大のジレンマだ。評価の定まった第一次史料を追うだけでは、知識は得られても、感覚は得られない。ということは歴史から教訓を得ることも不可能になり、歴史は象牙の塔の空虚な学問になってしまう。

これを避けるために必要なのは、当時の一般人の日記のような主観的な歴史記録だろう。たとえば“ええじゃないか”の参加者が記した日記を多数検証すれば、それは“時代の生きた証言”としての価値を持つだろうし、現代で言えばブログがその役割を果たすかも知れない。しかし、インターネット以前の時代の、そういった“草の根の歴史”を僕たちが目にすることは質、量ともに限られている。それほど有名でもない人物の個人史が一般書店に並ぶほどの商業的クオリティを持つのは非常に稀だ。当然、歴史の真実を知るチャンスは一般庶民から遠ざけられ、一部の歴史学者達の特権になってしまう。

ピーター・F・ドラッカーのこの本はそういった意味で奇跡的な存在だと思う。高名な著者が自分だけでなく、多くの他人の人生を記録したことにより、非常に充実した“時代の証言集”になっているのだ。勿論、著者自身が多数のサンプルを元に考察・結論を導き出せるだけの頭脳の持ち主で、しかも人間的にも誠実なので、史料としての高いクオリティを備えているのも大きい。

著者はナチスが政権を奪取する過程を実際に目の当たりにしている。取るに足らない、まともな人なら相手にしない、うさんくさい存在に過ぎなかったナチスが全ヨーロッパを震撼させる怪物に成長した理由を、それを許した社会の空気を、あるいは相対的にナチスを“まだましなもの”にしてしまった当時のヨーロッパ社会の停滞を様々な人物を通して描いている。この本を読めば20世紀前半のヨーロッパ社会の空気の移ろいが実感できるような気さえしてくる。

また、これも僕くらいの年代には想像もつかないことだが、共産主義・社会主義がヒップだった時代、啓蒙主義が生きていた時代など、歴史的事実としてしか知らなかった時代をまるで、自分が生きたかのように鮮やかに感じられるのだ。これは司馬遼太郎作品のような一級の歴史小説にも匹敵するものだと思う。

この本はつい最近、著者の死亡にともない新訳・別題で再出版された。しかし、この新訳が酷い。明らかに読者のレベルを低く設定し直しているのが分かる。結果、文体にも感じられた“旧世界”のエレガンスが失われ、(神の宿る)細部も削られ、旧訳とは別物の全くつまらない本に堕してしまっている。こんなことをしていて本が売れるわけがないだろうと、出版業界の質的凋落を嘆きたい気分だ。

こうしてまた良質の私的歴史書がまた僕たちの手から失われてしまうわけだ。

逃げた海

記述日時:2006年04月16日19:12


ある朝、目を覚ますと

昨日まで家の目の前にあった海が、200m遠くまで逃げていた

それでも子供達は200m先の海を追いかけて、遊びに行った

そのまた次の日、海はさらに400m先にまで遠ざかっていた

もう誰も海に泳ぎに行こうとはしなかった




これはおとぎ話でも黙示録の一節でもない。

中央アジアはアラル海沿岸の漁村で20年ほど前に実際に起こったことで、これはその村人の体験談だ。

40年にわたる過剰で雑な河川からの取水の結果、約150km(東京〜名古屋間に匹敵)も海岸線が後退した。海の大きさは往時の3分の1まで減り、塩分濃度が上がって、まず魚が死んだ。そして漁業が死に、それを生業としていた地域の共同体が死んだ。そして最後に残された人々は、砂嵐ならぬ“塩嵐”に襲われ、気管系の疾病を患い緩慢な死を迎えようとしている。

21世紀は“水の世紀”になるだろうと言われている。20世紀が“石油の世紀”だったのに対し、今世紀は水を奪い合って国家が、人が殺し合うだろうと予測されているのだ。アラル海のできごとは、そんな暗い時代の到来を告げる先触れのようなものかも知れない。

TVで冒頭の村人の話を聞いて、僕達はもしかしたら黙示録的な時代に生きているのかも知れないという気持ちにさせられた。「風の谷のナウシカ」の中で、人々が“火の七日間”以前の時代を捉えていたように、後世の人々は僕たちの時代を振り返るのかも知れないと、ふと思った。

2008年12月4日木曜日

ピーター・バラカンと私

記述日時:2006年03月23日16:34

先日、丸ビルのホールで行われたコンサートに独りで行った。

翌朝7時の新幹線で京都に行くので終演後ソッコー帰って荷造り&早寝せねばならず誰かを誘ってもかえって申し訳ない、というのもあったけど例え誘ったとしても「行きた〜い!」というリアクションはあり得ない。まぁそのくらいマイナー(日本では)なアーティストだったわけだ。

ロトフィ・ブシュナーク。モロッコ人歌手、ウード奏者。

かくいう自分もこの人の音楽を聴いたのはこの晩が初めて。にもかかわらず告知と同時にシートをゲットしたのは、前回(今回のコンサートは国際交流基金主催の地中海・アラブ音楽シリーズ第2回目)のナスィール・シャンマというイラク人音楽家のライブが素晴らしかったからだ。例えるなら、それと知らずベートーベンの演奏会に居合わせてしまったかのような感じだった。アラブ音楽という日本でマイナーなジャンルでなければ、とても間近で観られるような人ではなかった(しかも終演後サイン会もあった・・)。なわけでこのシリーズがどれほどお買い得かは分かっていたので、迷わずチケットを購入したのだ。

期待に違わず今回のコンサートも素晴らしかった。ブシュナーク氏の雄大な歌声に歌詞は分からずとも目頭が熱くなった。しかも彼は「ふるさと」と「さくら」をアラビア語歌詞で演奏してくれた。侍のようにストイックだったシャンマ氏がベートーベンならブシュナーク氏はパヴァロッティのような陽気でサービス精神旺盛な人だった。

2回のアンコールを経てコンサートは終了し、僕は急いで席を立ち出口に向かった。狭いホールだが満員の客が通路に溢れ、出口へ向かう列は遅々として進まなかった。すると後ろの方の座席に人混みが空くのを座って待っている男性がいた。痩せた身体、丸い頭、年齢の割に若々しい風貌、オシャレというほどではないが小綺麗な服装。またしてもピーター・バラカン氏だ。またしてもというのは僕がこういう場で彼を見かけるのは一度や二度ではないからだ。彼も独りで明らかに自腹で来ている。多分今日のコンサートに来ているような人種はみんな彼が好きなんじゃないかと思った。

彼の番組(CBSドキュメント)をよく観ているが、彼の守備範囲の広さ、バランスの取れた的確なコメントにはいつだって感心させられる。それに奇妙な偶然だが彼と僕の興味はときどきこのように交差するのだ。きっと微妙にミーハーな所が似ているのかもしれない(笑)。次はどんな処で彼を見かけることになるのか、それも楽しみだ。

青春の亡霊 〜 A GHOST OF YOUTH

記述日時:2006年03月06日13:54

学生時代の友達と銀座に飲みに行った。

最近では銀座の夜も長くなったようだけど、土曜の晩ともなるとさすがに閑散としている。しかしコリドー街の界隈だけは賑わっていて、最初に入った店は満席だった。

とりあえず並びの「点(TOMORU)」という店に入った。案内係に「落ち着いて話せる席がいいんだけど」とリクエストする。しかし、この店は合コンに重宝されそうな個室系だったので、その心配は無用だった。

この店で3時間、次に入った「LIME」という店で3時間、合計6時間にわたり飲み続け、しゃべり続けたわけだが、帰りのタクシーの中で早くも訪れた二日酔いの頭痛とともに「この友達とこんな風に飲むのもこれが最後かもな」と考えていた。

この友達とはもう15年以上になる付き合いで、それこそ若い頃には一緒に色々なことを経験した仲だ。しかしここ数年はたまに合う程度になり、お互いの仕事が全く違うこともあって共通の楽しめるテーマがどんどん減っていった。つまり正直なところ話していても今ではそれほど面白くないのだ。多分向こうも同じことを感じているだろう。

昔は山にこもってスキーに熱中したり、レコード屋めぐりやショッピング、一晩かけて新潟までドライブしたり、異性の話を飽きもせず延々と話したり、今となっては驚きを覚えるほど多くの時間を共有していた。しかしこの晩テーブルを挟んで1m先のソファーに座った友達は、ときどき全く知らない人のように感じられるほど遠い存在だった。

よくよく考えてみれば昔から僕とその友達は本質的には全く違うタイプだった。僕たちをその頃結びつけていたのはまさに“若さ”だけだったように思える。“若さ”とはつまり“可能性”で、それがある限り、何にでもなれるし、自分の本質からはかけ離れたライフスタイルにも適応してしまえる。しかし、社会に出て何らかの共同体に属するようになると、人は自然とその共同体に最適化するようになり、その他の可能性について無関心になる。だから共同体が違えば必然的に価値観が合わなくなる。そして往々にして人間は自分の価値観とかけ離れた人間を、自分への脅威と捉えがちなのだ。とは言え、端から見れば僕たちの席は男のくせによく喋る仲のいい連れに見えただろう。実際この夜、気まずくなるような沈黙はついに訪れなかったし、のどの渇きを癒すために通常以上の数のグラスがテーブルのコースターを濡らしていったほどだった。

この晩の話題はほとんど二つのことに終始していた。終焉にむかいつつある彼の結婚生活とその遠因となった(と僕には思われる)彼の職業の苛烈さについてだ。つまり状況的にこの晩の僕はほぼ聞き役にならなければならなかったわけだが、以上の理由でそれはかえって好都合だった。僕が何か提示したところで、彼がそれに本当に興味を持つと期待するのはあまりにナイーヴなように思えたからだ。

結局この晩、長年の友人二人をかろうじて結びつけていたのは、悲しみや虚しさ、家族への愛情など全く基本的な人間感情の共有と理解、そしてかすかに残っているかつての親友への親愛の情のみだった。それで十分とすべきなのかどうか僕にはよくわからない。“楽しさ”を共有するのが若年期の友人関係ならば、何か悲しいことがあったときぐらいしか会わない今の“悲しみ”を共有する関係も“友人関係”の一過程なのかも知れないと思うぐらいだ。

彼も同様に考えていれば、また会って夜更けまで飲むこともあるだろう。少なくとも“面白くない”というのは、相手が誰であれ長年の関係を捨て去るには十分な理由でないように思われた。もちろん、また何か二人の間に“楽しみ”を共有できる時期が来ればいいのだけど。

彼と別れてタクシーを拾うまでしばし晴海通りをてくてく歩いた。人っ子一人いない和光前の交差点を歩いていると、自分が幽霊になったような気分になる。今はもう会わなくなった人はいっぱいいる。彼等にとって僕はまさに幽霊そのものだろう。夜空に居座る冷たい月を見ていると急に寂しくなり、早く家に帰りたくなった。

2008年12月3日水曜日

捨てた物じゃない

記述日時:2005年11月20日00:15

新しい自転車が巨大なダンボールに包まれて我が家に到着した。何歳になってもピカピカの自転車は嬉しい。てなわけで早速自転車で遠出をすることにした。

天気も良く、豊洲、月島などを気持ちよく回りながら勝鬨橋を渡って築地場外でカレーうどんを食べた。銀座をぶらぶらしている内に夕闇が迫ってきたので、夕飯の支度に間に合うように帰ることにした。

家に帰ったのは6時くらいだった。魚を解凍し、炊飯器のスイッチを入れ、お茶を飲みながらミクシィでもやろうかと思った矢先、財布が見あたらないのに気づいた。そういえば帰宅してから財布を見た記憶がない。家中を探したが何処にも無い。考えたくはない可能性だが、自転車をこいでいるときにジーンズの後ろポケットから落ちたのだろうか。財布の中には各種カードや保険証、現金をはじめ、およそ日常必要な物が全て入っている。それらが悪用される可能性や再発行の煩わしさを考えると気が遠くなるのを感じた。

家での捜索に見切りをつけ、自転車で探しに行くことにした。最後に財布を出したのは佃島のスーパーで野菜を買ったときだから、佃島から自宅までの間で落としたはずだ。しかもその後月島界隈をぶらぶらしたので捜査範囲は死ぬほど広い。しかし早く行けば見つかる気がして〜というかそう思いたい一心で、疲れた脚に鞭打って来た道を戻って行った。

ライトで夜道を隈無く照らしながら「これは見つかりそうもないな」と思い始めた。夜なら暗くて拾われないかもと思ったけど、ほとんどの歩道は街灯で照らされていて誰も気付かないとは考えづらい。拾って交番に届けてくれればいいが、今の日本でそれを期待できるだろうか? 自分だったらどうする? 行けば行くほど“きっと見つかる”という期待は夜の闇に虚しく吸い込まれていく

途中、東雲の交番で「遺失物捜索願」を提出し、管内の警察署に問い合わせてもらうが成果は無かった。対応してくれた警官が一刻も早く家に戻ってカード会社に電話して止めてもらった方がいいと薦めてくれた。自分もそう思ったが、まだ諦める気になれない。と言うより自分が財布を無くすなんてヘマをしたことを認めたくないのだと思う。なんとか財布を見つけて失態を帳消しにしたいだけなのだ。冷静に考えればカードの停止が最優先で、自分で見つけたり誰かが交番に届けてくれるのを期待するのは明らかに合理的な判断じゃない。悪い人に拾われて今この瞬間に不正使用さているかも知れないんだから。しかし僕は頭の中の「きっと見つかる」という愚かな囁に負けた。とりあえず次の交番がある豊洲の交差点まで探して、それでダメだったら家に戻ってカード会社に連絡しよう。

結局、何の収穫も無いまま豊洲の交番に着いてしまった。一応「青い皮の財布が届いてませんか?」と聞くと、警官は「無い」と即答した。軽い絶望を感じて帰ろうとすると、奥から出て来た別の警官が何か身元を証明できる物を持ってるかと尋ねてきた。「遺失物届けならもう出しましたよ」と答えたが、とりあえずそこに座れと言う。早く帰りたいのにと思いつつも疲れて抵抗する気にもなれず、大人しく座って警官の質問に答えた。氏名や住所などを聞いた上で、何か身元を証明できる物がないか重ねて聞いてくる。あわてて家を出たのでIDの類は持ち合わせておらず、自転車も買ったばかりで未登録だ。そう答えると警官は何故か思案顔をしている。もしやと思い「財布が届いているんですか?」と聞くと、それには答えず「携帯に自分の名前は入ってる?」と聞き返してきた。「親族ぐらいしか入ってません」と言うとまた警官は困っている。さすがに変だと思い「もしかして財布があるんですか?」と言い寄ると、警官はしぶしぶ「ひとつ届いている」と認めた。

狐につままれたような気がした。さっきまですっかり諦めていたので俄には信じられない。どうやら身元証明が出来ないと「遺失物」についての情報を一切与えられないようなのだ。ともかく財布と再会できる可能性が急に高まったので僕は自分の体中をまさぐって、やっと妻名義の図書館の貸出カードを見つけ出した。それには住所が記入されてなかったので証明には不十分だったが、警官は妻に電話して確認できればいいと言う。仕事先の妻と連絡がつき、ついに警察の規定を満足させることが出来た。

警官が奥から出してきたのは紛れもなく僕の財布だった。やや表面に傷が付いてしまったが、中身は何も抜かれていない。嬉しいというより安心して気が抜けるのを感じた。記録を読むとどうやら僕が落としてすぐに誰かが拾って交番に届けてくれたらしい。世の中には本当にいい人がいるものだ。その人は連絡先を言わずに去ったそうなのでお礼を言うことは出来ないが、その人の良心と誠意に心から感謝した。

警官にしつこい程お礼を言って豊洲交番を後にし家に向かった。脚の疲労は頂点に達していたが、安堵感と幸福感がそれを軽減してくれた。東雲の交番にも寄ってお礼を言い、暗い運河沿いの坂道を上りながら思った。「まだまだ日本も捨てたもんじゃないなぁ〜」って。

幸運の女神のジョギング・ルート

記述日時:2005年11月12日13:00

上野国立博物館でやってる「北斎展」に行った。
画集を持っている程度に北斎には興味があったので二回券を前売りで買ったんだけど、一回で十分だったかも。

とにかく人、人、人なのだ。
大体300点ほどが展示されてたんだけど、6人/1点くらいの人口密度。ちなみに自分が行ったのは平日の午前10時。この時間帯でこの混み様なのだから午後や土日は想像するのも恐ろしい。人口比は、とにかく元気なシルバー60%、学校の課題で来ている学生15%、何故平日の昼間ヒマなのか不明な社会人風の小綺麗な女性10%、同様に何故平日の昼間ヒマなのか不明な、かといって知りたくもないむさ苦しい男性(自分も?)10%、先生に引率されてイヤイヤ来たクソガキ共5%といったところ。タダ券や付き合いで来た人を奈落に落とせば、かなり快適になるだろう。

でも展示品の内容は素晴らしく、1点1点丁寧に見ていったら4時間もかかってしまった。ギャラリーを出ると更なる人の波がこちらに押し寄せてくるのが見える。きっと午後の人口密度は10人/1点じゃ収まらないだろう。

ところで「美術館でずっと自分と同じペースで見て回った異性に好意を持つ」というマーフィーの法則はないのかな。アメリカのとある調査で、結婚したカップルが出会った場所の1位が「本屋」だったらしい。それを読んだとき「日本じゃありえねぇ〜な〜」と思ったけど、美術館でもそれは難しそうだ。何時間も趣味の時間を共にしながら、来たとき同様にお互い独りで帰ってゆく・・。“北斎展”で検索して読んでくださっている方には申し訳ないが、上野の杜の中にある「伊豆栄・梅川亭」で鰻丼を食べながら何故か思考はそんな下らない方向へ脱線していった。

文化的なシチュエーションでの出会いには“軽薄さ”を払拭する“偶然”が不可欠だ。偶然同じ本に手を伸ばすなんていうのは古典的すぎてナンセンスだけど、それが特殊な専門書店だったり、旅先で入った本屋だったりすると“偶然”の希少性が高まって“エクスキューズ”として成立する。

実際、むかし独りで日本庭園巡りの旅をしたときにこんなことがあった。とあるマイナーな寺の入口で自分の前で拝観料を払っていた女の子がいた。庭は広いのでそこで彼女とすれ違ったりすることは無かったが、次に向かった少し離れた寺でも同じシチュエーションが繰り返された。お互い「偶然ですね」というような笑みを浮かべ、自然とその後のスケジュールを共にすることになった。彼女は特に日本庭園に興味があったわけではなく、僕が持ち歩いてた『図説・日本庭園の見方』なる本を見て苦笑していたが、いろいろ話してみて共感できるセンスをお互いに持っていることが判った。東京に戻ってからも彼女との付き合いは続いたが、“不幸な偶然”が重なってある日突然終わってしまった。

なんか事例を挙げるつもりがついつい追憶モードになってしまったが、何が言いたいのかというと「文化的なシチュエーションでの出会いは極めて狭き門だが、偶然の助けを借りれば通常以上に実りあるものになり得る」ということ。つまり“幸運の女神が目の前を走り過ぎたら躊躇無く脚を出して転ばせて馬乗りにした上で前髪を掴め”ってことですね。

上野の杜独特の陰気さから逃げる様に上野広小路に出る。その名の通りここは江戸時代、火事の延焼を防ぐための広場が盛り場に転じたところだが、今では品のない雑居ビルが連なる猥雑な界隈だ。ちょっとぶらつこうかと思ったけどやめた。地下鉄の階段を下り、今日掴み損ねた前髪を考えながら家路についた。

有楽町ガード下

記述日時:2005年10月28日16:14

仕事仲間の先輩と丸の内オアゾ内の丸善ブックストアをスクロールした。

仕事の関係で僕等はときどき現在の傾向を知るために大型書店を上から下までチェックする。とても疲れる作業だけど、大型書店は子供にとってのキディランドのように楽しい空間でもある。

いままでは八重洲ブックセンターや紀伊国屋本店でやってたけど、ここの丸善はイイかも。フロアがきれいで広いし、途中で休めるカフェがあるのもグッド。あと場所柄か品揃えがどちらかというと“男性向け”なのも好都合だ。大型書店の1Fは大抵女性向けの雑誌が大半を占めるのだけれども、ここはビジネス・政治書がどーんと並んでいる。

途中休憩を挟んで店を出たときには、先輩は紙袋いっぱいの本を抱えていた。旅行用のカートで神田を回ったときもあるそうだ。僕は読みかけの本が十冊ほど溜まってるので今日は買わないでおいた。店を出ると東京駅はすでに家路につく会社員で混み始めていた。僕らは有楽町までマツケンはゲイじゃなかったのか、また偽装結婚じゃないのか?」などとどうでもいい話をしながら線路沿いを歩き、ガード下の焼鳥屋で一杯やることにした。

有楽町ガード下の焼鳥屋というと有名だけど、実はそれほど店の数は多くない。本当にガードの下にあるのは2軒だけだ。すでに店はサラリーマンでいっぱいだったが、通路に張り出した補助席のようなところが丁度開いたので、そこで焼鳥ともつ煮込みを肴にビールを飲み出した。だんだん寒くなってきたとはいえ、こういう所で飲むにはまだまだいい季節だ。

ここで飲んでいると面白いことがある。ときどきフラッシュの光で顔を上げると、見知らぬ人が自分にカメラを向けているのだ。最初は少し居心地が悪いが、すぐに自分が“観光客向けの東京の風景”の一部であることに慣れてしまった。どうやらここは日本人、外国人を問わずフォトジェニックなスポットのようだ。時折観光客丸出しの太った白人の団体が物珍しそうに覗き込みながら、それでいて失礼にならないようにか微妙な歩行速度でガード下を過ぎていく。先輩の話だとここは外国人旅行者向けのオプショナル・ナイト・ツアーのコースに入っているそうだ。ナイト・サファリのシマウマじゃ無いんだぞ、と一瞬思ったが、考えてみれば自分だって外国のマーケットでカメラをぶら下げてうろついているよな。逆にそんな時地元民にどう思われているかが分かってよかった。誰も大して気にしちゃいなかったんだね。

こんな風に見知らぬ誰かのアルバムの一部になりながら酒を飲むのも悪くないね。

2008年12月2日火曜日

半日で味わえる海外旅行

記述日時:2005年10月13日20:51

新宿の総務省統計局に行く用があって大江戸線の若竹河田駅で降りた。この駅で降りたのは初めてだけど、都会のど真ん中なのにまるで地方都市のようなノンビリとしたところだった。地上げのあとだろうか、やけに空き地が目立つせいだ。駅の近くに古い洋館が見える。もしかしてこれが一時期話題になってた「小笠原伯爵邸」ってやつか?

用が済んで、庁舎内の昭和初期から続いているような喫茶店でミートソース(400円)+コーヒー(+70円)を食べた。マ・マーの1.8mmパスタにオーマイの缶詰をかけたようなお味(完璧な描写だ)。コーヒーは意外と本格的。

時間があるので帰りは新宿まで歩いてみた。戸山公園に入ったが、ここもまるで高度成長期にタイムスリップしたかのような所だった。ここは都営団地に囲まれていて、きっと30年前はキレイで近代的な地区だったのだろうが、今じゃすっかり古くなり落ちぶれた雰囲気に包まれている。公園の緑も手入れをしてないらしく、昼尚暗い原生林のようだ。ベンチに座るのは老人ばかりで、まるで黄泉の入口のような異空間だった。

そんな陰気な公園を脱出して大久保通りを西へ向かう。ここらに来るのは久しぶりだが、更に“日本”じゃなくなっている。韓国系の店が多いのは相変わらずだが、通行人も中国人やアラブ人が増えたような気がする。店先からは外国で嗅いだことのあるスパイスの強烈な香りが漂い、一瞬東南アジアの市場にいるような錯覚に陥る。何処だよここは。

少し寄り道して3年前に来たことのあるアジアPOPS専門店に入った。ここは裏通りの雑居ビルの2Fで看板も出てないのだが、迷わずに見つけられた。同じ階にアラブ系の食料品店が入っていたので、ちょっと覗いてみた。テレビで観たことはあるが、いわゆる“ハラル・フード”を扱う店だった。エジプトのコシャリはないかと探したけど、パキスタンとインドネシアの物がほとんどのようだ。ハラル・ミートを買っても(自分には)意味がないので、パキスタンのカレーの缶詰を2つ買った。一個400円で結構高い。

その後新宿南口まで歩き、紀伊国屋で仕事関係の本を買った。最近は1万円分以上買うと無料で宅配してくれるんだね。アマゾンと値段が同じなんだから当然か。

おなかが減ったけど家まで我慢して、家でパキ・カレーを食べてみた。メチャ旨い。大久保はちょっとした海外旅行だなと再確認。

カニエ・ウェスト

記述日時:2005年09月04日18:17

カニエ・ウェストがハリケーン救援公演で突然ブッシュ大統領批判を初めて、一部が放送されちゃって騒ぎになったらしい。

でも救援コンサートの最中とはいえ、アメリカは“言論の自由”を標榜してるのに、これほど騒がれるのが何か不思議だ。

ブッシュが普段から極端に白人キリスト教徒的な立場で政治をやってるのは周知の事実だし、今回の対応の拙さをニューオリンズ市長など色々な人から批判されているわけでしょ?

みんなで一丸になって被災者を助けようってときに“内輪もめ”を始めたって事でウェストは非難されているんだろうけど、そもそも“内輪”って意識を持てない黒人がいっぱいいるってことじゃないのかな。

公民権法成立から40年以上経っても相変わらず構造的差別が解消されないから、ときどきこういうきっかけでその“ひずみ”が爆発するんだよね、きっと。『ロドニー・キング事件』や『O.J.シンプソン裁判』を思い出すな。

それにしても、最近このカニエ・ウェストというミュージシャンが何か気になっている。先日偶然彼の新曲のPVを観たが、結構衝撃的な映像だった。『DIAMONDS FROM SIERRA LEONE』っていうタイトルで、歌詞の内容はわからないけど、映像から察するに「愛の証だとか言ってダイヤモンドを恋人に贈っているけど、それが世界最貧国の一つでダイヤなどの埋蔵資源を巡って子供まで兵士として利用されている血まみれのシエラレオネ産なのを知ってるか?」みたいな内容(少なくともPVは)だと思う。

最近ここまで“アフリカ”や“政治”を真摯に取り上げた黒人アーティストはいなかったし、アホみたいな“ボースト”系のラッパーが多い中でとても新鮮に感じる。こういう人が出てくればまたHIP HOPを聞いてみようかなって気になるな。

ヨン様フィーバーを実感・・

記述日時:2005年09月01日12:37

昨日人づてに招待券をもらったので、さいたまスーパーアリーナで行われた映画『四月の雪』(ペ・ヨンジュン主演)の公開記念イベントに行って来た。

ちなみに僕は“韓流”ファンでもなんでもない。『冬ソナ』は見てみたけど正直面白いとは思わなかった。
なわけでニュースを見て今だ根強い“韓流”ブームに感心はしていたけれども、世の一般男性同様「いまいち(どこがいいのか)わかんね〜」というのが本心だった。
しかし理解できないものほど興味をそそられるもので、怖い物見たさ的な気分で行ってしまいましたよ、熱狂のアリーナへ。

とにかく圧倒された。スゴすぎる。たかが映画のプロモーション・イベントに3万人(!)の女性が集結した様は凄まじいの一言。スター・ウォーズだってこんなに動員できないよ。3万人の観客の内、関係者以外の男性は多分僕を含めて30人もいないだろう異様な空間。そしてその3万人の視線、興味がたった一人の“男性”に注がれる・・。

僕はこれまでこんな状況を見たことがなかった。タッキーのソロ・コンサートなら似たような光景を見ることが出来るかも知れないけど、ステージに立っているのは僕とほとんど同じ年の男ひとりで、観客の女性は30〜60代をメインにした幅広い年齢層だ。自分の母親とそう変わらない女性達がまるで少女のように目を輝かせ、ひたすらヨンジュン氏の動作ひとつひとつを注視し、嬌声をあげている。

イベントがハネた後、少なくとも僕は理解した。これは“男には決して完全には理解できないだろう”ってことが。幾らかは理解できたこともある。ヨンジュン氏の魅力や、ファンの女性にも色々なタイプがいるということ。そしてこの特別な(異常な?)状況が永遠には続かないということをファンの女性も当のヨンジュン氏も理解してるだろうということ。

男は往々にして女性の刹那的な面に反発するけど、刹那であるが故にこの瞬間がここまで熱いものになるということは理解できる。男性にとってのサッカーや野球の熱狂とはまた違うが、共通点はある。しかし、そもそも男性がこの“熱狂”を理解しようとすること自体野暮で無用のことかも知れない。だってそこには“ヨン様”以外の男性の居場所は無いんだから(笑)。
僕らに出来るのはせいぜい、もし自分の身内の女性が“ヨン様”に入れ込んでしまったとしたら、それを暖かく見守ってやる位だろうな。彼女たちの楽しそうな眼を見れば、それを否定する理由は何もないことがわかる。

そこで最後まで気になったのは、この“世界”で唯一の男性であるヨンジュン氏の気持ちだけど、これは逆にファンの女性には決して理解し得ないところじゃないかな。結局“相互不理解”ってことがキーなのかな。そう考えると今更ながら“男女関係”って不思議だよな。なんでこんな関係を作ったのか、神様の気持ちが一番知りたいかも。

すっかり“ヨン様電車”と化した埼京線で家路についたわけだけど、面白かったけど、疲れた・・

徹夜明けにタクシー・ドライバー

記述日時:2005年04月21日18:00

久しぶりに仕事で徹夜をしてしまった・・
仕事は朝方に終わったんだけど寝ちゃうと夜寝れなくなっちゃうからガマンして起きてることにした。

しかし昼頃になると瞼がググッと重たくなってきた。
日光を浴びると体内時計が戻るって言うから散歩がてら近所のシネコンに『タクシー・ドライバー』を見に行った。

何で今頃『タクシー・ドライバー』?
何か知らないけどたまたま1000円ポッキリで再上映してたのだ。
平日の昼間、客は30代とおぼしき男性3名(含む自分)・・・何かもの悲しいものがある。

しかし隣でやってる『ブリジット・ジョーンズ2~脂肪の逆襲』にも30代女性が3組(計6名)くらいしか入っていないような気がする。
男性にとっての『タクシー・ドライバー』と女性にとっての『ブリジット・ジョーンズ』は実は相似形なのでは?なんて徹夜明けの脳ミソで考えてしまった。

映画が終わり客電がつき、そそくさと席を立つ30代男子達。
二度と会うこともないだろうが、彼等とはきっとお茶ぐらいはできそうな気がする。

2008年12月1日月曜日

開始にあたって

世間の人々がする“ブログ”なるものを私も利用することにいたしました。

と言っても情報発信などと言う様な大それた意図は毛頭無く、言わば備忘録に近いひたすら自分自身のための“心のメモ”の様なものです。

一応、読みやすいように文章は整理するつもりですが、それも読む人のためと言うよりは自分の考えを整理する過程の副産物です。

よって私の文章には至らない点も多々有ると思います。
万一御不興の場合は、水溜まりを踏んでしまった位に考えていただき、一刻も早く他のサイトにお心を移してくださるようお願いいたします。

また、自身の怠惰さを鑑みますと、そもそも月に一回でも更新すれば良い方だと予想されますので、例えレスをいただいたとしても素早い返答は無理かもしれません。
出来る限り真摯に対応したいと思いますが、前もって失礼をお詫びしたいと思います。


とりあえず、つまらなくなって開店休業状態の某SNSから日記を移植することから始めたいと思います。当然、それらは投稿日よりも遥か以前に書いたものです。

私の文章は日記というよりも随筆に近いので日付はそれほど重要ではないと思いますが、今後も必ずしも記述日と投稿日が一致しないケースもあると思われますので、冒頭に記述日を記載することにします。


それでは宜しくお願いいたします。