2008年12月5日金曜日

失われた空気 〜『傍観者の時代』を読んで

記述日時:2006年05月12日13:12


「傍観者の時代」という本を読んでいる。
この本が異様に面白い

著者はオーストリア生まれの米国人、ピーター・F・ドラッカー。「経営学」をかじったことのある人なら絶対に知っている人。「経営学」の創始者で、彼を崇拝するビジネスマンは日本にも非常に多い。といってもビジネス・スキルというよりは社会学としての企業研究、組織研究みたいな感じで、ドラッカー氏自身はエコノミストではなく社会学者、文筆家を自称している。

この「傍観者の時代」は経営とは全く関係無い他人伝ともいえる内容。彼が親交を結んだ人物を語ることで、間接的に氏の生きた20世紀を叙述している。登場人物は概して、当時は才気煥発だったが今では誰も思い出さない、まるで「アマデウス」のサリエリのようなタイプが多い。誤解を恐れずに言えばホリエモンのような感じかも。歴史には残らないが、同時代人に大きな影響を与えた人物だ。登場人物の人生だけでも十分面白いのだけど、それ以上に僕が面白いと思ったのは、この本に記録された失われた空気とでも言うものだ。

たとえば去年の9月11日の選挙で小泉自民党が驚異的な圧勝をしたことは、必ず歴史に残るトピックだろう。後世の学生が歴史教科書を読むとき、そこには年号と事実の簡潔な記述、あるいは郵政改革をめぐる対立の解説が載っているかも知れない。しかし果たしてそれは“生きた”歴史の記録だろうか?去年の秋のあの異様な興奮を、はたしてその学生は理解できるだろうか?小泉を圧勝させた時代の空気を実感できるか甚だ疑問だ。

江戸時代の“ええじゃないか”の発生原因を現代の歴史家が説明できないのもここに問題がある。彼等はいつ、どれほどの規模で、何が起こったのかは知り得ても、一体どんな社会的な空気があれほどの人々を、異常な集団行動に駆り立てたのかは全く説明できない。これは歴史を学ぶ者にとっての最大のジレンマだ。評価の定まった第一次史料を追うだけでは、知識は得られても、感覚は得られない。ということは歴史から教訓を得ることも不可能になり、歴史は象牙の塔の空虚な学問になってしまう。

これを避けるために必要なのは、当時の一般人の日記のような主観的な歴史記録だろう。たとえば“ええじゃないか”の参加者が記した日記を多数検証すれば、それは“時代の生きた証言”としての価値を持つだろうし、現代で言えばブログがその役割を果たすかも知れない。しかし、インターネット以前の時代の、そういった“草の根の歴史”を僕たちが目にすることは質、量ともに限られている。それほど有名でもない人物の個人史が一般書店に並ぶほどの商業的クオリティを持つのは非常に稀だ。当然、歴史の真実を知るチャンスは一般庶民から遠ざけられ、一部の歴史学者達の特権になってしまう。

ピーター・F・ドラッカーのこの本はそういった意味で奇跡的な存在だと思う。高名な著者が自分だけでなく、多くの他人の人生を記録したことにより、非常に充実した“時代の証言集”になっているのだ。勿論、著者自身が多数のサンプルを元に考察・結論を導き出せるだけの頭脳の持ち主で、しかも人間的にも誠実なので、史料としての高いクオリティを備えているのも大きい。

著者はナチスが政権を奪取する過程を実際に目の当たりにしている。取るに足らない、まともな人なら相手にしない、うさんくさい存在に過ぎなかったナチスが全ヨーロッパを震撼させる怪物に成長した理由を、それを許した社会の空気を、あるいは相対的にナチスを“まだましなもの”にしてしまった当時のヨーロッパ社会の停滞を様々な人物を通して描いている。この本を読めば20世紀前半のヨーロッパ社会の空気の移ろいが実感できるような気さえしてくる。

また、これも僕くらいの年代には想像もつかないことだが、共産主義・社会主義がヒップだった時代、啓蒙主義が生きていた時代など、歴史的事実としてしか知らなかった時代をまるで、自分が生きたかのように鮮やかに感じられるのだ。これは司馬遼太郎作品のような一級の歴史小説にも匹敵するものだと思う。

この本はつい最近、著者の死亡にともない新訳・別題で再出版された。しかし、この新訳が酷い。明らかに読者のレベルを低く設定し直しているのが分かる。結果、文体にも感じられた“旧世界”のエレガンスが失われ、(神の宿る)細部も削られ、旧訳とは別物の全くつまらない本に堕してしまっている。こんなことをしていて本が売れるわけがないだろうと、出版業界の質的凋落を嘆きたい気分だ。

こうしてまた良質の私的歴史書がまた僕たちの手から失われてしまうわけだ。

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