2008年12月7日日曜日

パリ往路・復路

記述日時:2006年10月26日13:00

旅の余韻に浸る間もなく繁忙期に突入してたので、PARIS旅行の続き。

アエロフロートの機内食は意外とまともだった。ただし、やはりアルコール類は有料。モスクワのシェレメチボ空港に着陸すると、これはもう恒例行事なのか乗客から拍手があがる。噂に反して全く危なげないフライトだったのだが・・・

シェレメチボは古くさく、いかにも共産国っぽい作り。免税店にはマトリョーシカとウォッカと共産主義時代をネタにしたTシャツ位しか売ってない。全くハレの舞台としての華やかさに欠ける空港だが、ときどきスゴイ美人の空港職員がいて気が抜けない(?)。


機内で隣に座ったチャド人はモスクワから更にアムステルダム、トリポリを経由して自分の国に帰ると言っていた。日本への旅は片道3日かかるらしい。聞くだけで疲れる話だ。しかも彼は走り高跳びの選手のように手足が長いのでエコノミー席は拷問に近いのでは。

ところでチャドのような日本人にとってマイナーな国の人と話すのは結構大変だ。日本の話で盛り上がってる間はいいが、チャドの話となると苦しくなる。だって悪いけどチャドについて知ってることなんてほとんど無いに等しい。唯一知ってた話題はチャド湖消滅のニュース。僕はてっきり灌漑など人為的原因で干上がったのかと思っていたが、彼の話だとそうではなく温暖化など自然の問題らしい。

当然のようにチャドに関する話はそれで終わった。


CDGに着いたのは夜遅く。エール・フランスのバスはもう終わってたし、16時間の移動で疲れたのでタクシーでホテルに向かうことに。機内でフランス語テキストを一読したものの、運転手が何を言ってるのかサッパリわからない。でも機内で丸暗記したフランス語のフレーズ「領収書下さい」は通じた。発音は意外とルーズなのかも。


行きのタクシーは白人運転手だったが、最終日のCDGに向かうタクシーの運転手は広東系カンボジア人のフランス人(ややこしい)だった。パリではやはりアフリカ、アラブ系の移民が目立つけど、ベトナムやカンボジアなど旧植民地のアジア系は結構いるみたいだ。

彼はもう50過ぎでもうパリに来て30年になるらしい。日本企業で働いていたこともあって日本語の挨拶くらいはできるようだ。利用航空会社を聞かれたとき、「なんで日本人なのにANAやエール・フランスじゃないんだ?」と聞かれ「だって安いから」と答えると聞いちゃいけないことを聞いたような顔をしていた(失敬な)。


僕が2年前にシェム・リアップに行った話をすると、

運: 俺もつい最近カンボジアに行ったよ。でもカンボジアは嫌いだ。シエム・リアップはいいけど、プノンペンは汚い、最悪だ。

僕: 何で?帰ってみたいとか思わないの?向こうに親戚とか家族はいるの?

運: いない。全員殺された。両親、兄弟、6人全員な。

僕: ・・・それって・・クメール・ルージュに殺されたってこと?

運: そう。俺の親父はリッチなビジネスマンだったんだ。あいつらは金持ちと知識人をみんな殺したんだ。俺はもう歳で今更カンボジアには帰れない。それにパリに30年も住んで、こっちのほうが好きだし、俺はもうフランス人だよ。

僕: ・・・・

「俺はフランス人でカンボジアは嫌い」という彼だったが、その表情は複雑だった。何故彼だけが生き残ってパリに脱出できたのかは聞かなかったけど、彼の表情から彼の人生が困難の連続で今も決して楽ではないことが察せられた。

ポル・ポトの信じられないくらい残酷で子供っぽい国家計画は悪名高いけど、実際にそれによって人生を狂わされた人にパリで話を聞けるなんて幸運だった。パリとは直接関係ないけど、彼の苦虫を噛みつぶしたような悲しい顔は今回の旅行の印象深い1コマだ。


帰りのアエロフロートも全く危なげなく成田に着陸し拍手を浴びていた。しかし同じ頃ロシアのどっかの地方空港でまた事故があって大勢死んだらしく、実家の両親に「もうエロフロートなんか乗っちゃダメよ」と諭されてしまった。

今回の旅行で結構気に入っちゃったんだけどな〜アエロフロート。

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