2008年12月4日木曜日

青春の亡霊 〜 A GHOST OF YOUTH

記述日時:2006年03月06日13:54

学生時代の友達と銀座に飲みに行った。

最近では銀座の夜も長くなったようだけど、土曜の晩ともなるとさすがに閑散としている。しかしコリドー街の界隈だけは賑わっていて、最初に入った店は満席だった。

とりあえず並びの「点(TOMORU)」という店に入った。案内係に「落ち着いて話せる席がいいんだけど」とリクエストする。しかし、この店は合コンに重宝されそうな個室系だったので、その心配は無用だった。

この店で3時間、次に入った「LIME」という店で3時間、合計6時間にわたり飲み続け、しゃべり続けたわけだが、帰りのタクシーの中で早くも訪れた二日酔いの頭痛とともに「この友達とこんな風に飲むのもこれが最後かもな」と考えていた。

この友達とはもう15年以上になる付き合いで、それこそ若い頃には一緒に色々なことを経験した仲だ。しかしここ数年はたまに合う程度になり、お互いの仕事が全く違うこともあって共通の楽しめるテーマがどんどん減っていった。つまり正直なところ話していても今ではそれほど面白くないのだ。多分向こうも同じことを感じているだろう。

昔は山にこもってスキーに熱中したり、レコード屋めぐりやショッピング、一晩かけて新潟までドライブしたり、異性の話を飽きもせず延々と話したり、今となっては驚きを覚えるほど多くの時間を共有していた。しかしこの晩テーブルを挟んで1m先のソファーに座った友達は、ときどき全く知らない人のように感じられるほど遠い存在だった。

よくよく考えてみれば昔から僕とその友達は本質的には全く違うタイプだった。僕たちをその頃結びつけていたのはまさに“若さ”だけだったように思える。“若さ”とはつまり“可能性”で、それがある限り、何にでもなれるし、自分の本質からはかけ離れたライフスタイルにも適応してしまえる。しかし、社会に出て何らかの共同体に属するようになると、人は自然とその共同体に最適化するようになり、その他の可能性について無関心になる。だから共同体が違えば必然的に価値観が合わなくなる。そして往々にして人間は自分の価値観とかけ離れた人間を、自分への脅威と捉えがちなのだ。とは言え、端から見れば僕たちの席は男のくせによく喋る仲のいい連れに見えただろう。実際この夜、気まずくなるような沈黙はついに訪れなかったし、のどの渇きを癒すために通常以上の数のグラスがテーブルのコースターを濡らしていったほどだった。

この晩の話題はほとんど二つのことに終始していた。終焉にむかいつつある彼の結婚生活とその遠因となった(と僕には思われる)彼の職業の苛烈さについてだ。つまり状況的にこの晩の僕はほぼ聞き役にならなければならなかったわけだが、以上の理由でそれはかえって好都合だった。僕が何か提示したところで、彼がそれに本当に興味を持つと期待するのはあまりにナイーヴなように思えたからだ。

結局この晩、長年の友人二人をかろうじて結びつけていたのは、悲しみや虚しさ、家族への愛情など全く基本的な人間感情の共有と理解、そしてかすかに残っているかつての親友への親愛の情のみだった。それで十分とすべきなのかどうか僕にはよくわからない。“楽しさ”を共有するのが若年期の友人関係ならば、何か悲しいことがあったときぐらいしか会わない今の“悲しみ”を共有する関係も“友人関係”の一過程なのかも知れないと思うぐらいだ。

彼も同様に考えていれば、また会って夜更けまで飲むこともあるだろう。少なくとも“面白くない”というのは、相手が誰であれ長年の関係を捨て去るには十分な理由でないように思われた。もちろん、また何か二人の間に“楽しみ”を共有できる時期が来ればいいのだけど。

彼と別れてタクシーを拾うまでしばし晴海通りをてくてく歩いた。人っ子一人いない和光前の交差点を歩いていると、自分が幽霊になったような気分になる。今はもう会わなくなった人はいっぱいいる。彼等にとって僕はまさに幽霊そのものだろう。夜空に居座る冷たい月を見ていると急に寂しくなり、早く家に帰りたくなった。

0 件のコメント: